平生町(ひらおちょう)は阿多田交流館のまちです。
瀬戸内海に面するのどかなまち、平生町阿多田(あたた)。ここには昔、海軍の潜水学校、そして、「平生回天基地」がありました。
苦しい戦況をひっくり返すことができる兵器があるー。太平洋戦争が激化する中、日本の若き兵士らは未知なる兵器での出撃を志願するよう求められました。軍国教育の影響下で断る者はおらず、早く出撃したいと意気込む者ばかりでした。
1943年12月1日。「あれが、貴様らが乗る回天だ!」と告げられた志願者らは、黒い鉄の塊をみて、驚きました。「ある程度は覚悟をしていましたが、まさか、これに乗って行くんだとは。これに乗って行ったら最後だと、直ぐにわかりましたね。みんな、それを見て、黙りましたね」。それは、前進しかできず脱出装置もない人間魚雷「回天」でした。回天とは、「天を回(めぐ)らし、戦局を逆転させる」の意。魚雷に人の目をつければ軍艦を駆逐できる確率も上がるという非人道な発想から生まれた最終兵器でした。出撃の際には自決用の短刀「護国」が手渡されたそうです。
出撃の決まった搭乗員はこんなメモを残しています。「体当たりまであと旬日。ひと目、家の者たちに、親類に、お別れしたい。これまでが人情だろう。しかし、よく考えてみよう。果たして、会うだけで心残りが飛ぶだろうか?未練が一層強く残るのではないか。こんな女々しいことで5万トンの敵を轟沈できるか?底からの声を奮い起こせ!男らしくやれ!」。結局、出撃せずに終戦を迎えた搭乗員は呆然としたそうです。
平生町の「阿多田交流館」には映画『出口のない海』で使用された回天のレプリカが展示されており、戦争の凄惨さを今に伝えています。人の命を軽々しく奪うようなリーダーや政策を絶対に許してはなりません。
厳しいイメージとは裏腹に、当時の平生は「鬼の大津島(山口県周南市)、地獄の光(山口県光市)」と対比して「極楽の基地」と呼ばれていたそうです。棒や素手で殴られることもありませんでした。そこには、死ぬことが決まっている若者たちへの哀れみもあったのでしょう。
古いUIですが、まちの観光サイトでは2006年のインタビューが今もトップに掲載されているので、興味のある方はご覧ください。
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