地理がお好きな方なら「海なし県」はすぐに答えられると思います。
栃木県、群馬県、埼玉県、長野県、山梨県、岐阜県、滋賀県、奈良県の8県です。
残りの39都道府県は「海あり県」ということになります。港は世界につながる経済の拠点となり、海水浴場や景勝地には全国各地から人が集まります。しかし、海あり県の中には「海なし県庁所在地」を選んだ県があります。調べてみると、全国で6道府県が該当します。なぜ、海があるにも関わらずあえて海のない場所を県庁所在地に選択したのでしょうか。「そんなのおかしい!」。不思議で仕方がないので調査してみました。
平安京を参考にした北海道札幌市
明治時代、屯田兵によって開拓された北海道。札幌市は日本の市町村で4番目、海に面していない市町村では人口が1番多いまちです。そのまちづくりは京都を参考にして行われました。
「北海道」という名称の考案者でもある探検家・松浦武四郎は広大な石狩川の河口を大阪を流れる淀川の河口に見立てて、「札幌は京都のように繁栄する」と提言。そして、「北海道開拓の父」と呼ばれる島義勇(しまよしたけ)は円山から広大な石狩平野が三方を山に囲まれた景色を見て京都との類似性に驚き、「世界一の都市になる」になると確信したようです。そのため、札幌市は大通公園を起点に碁盤の目のようなまちが広がり、町名には「条」が取り入れられています。
奥州街道が通る岩手県盛岡市
今回取り上げる6道府県の半分にあたる3県は東北地方です。これは、江戸時代に整備された五街道の一つ、「奥州街道」の存在が大きいです。現在の国道4号にあたり、東京から栃木県宇都宮市、福島県福島市、宮城県仙台市、岩手県盛岡市、青森県青森市を結びます。これは現在の県庁所在地にピタリと当てはまります。五街道の開通により発展したまちがそのまま現在でも主要都市になっているのです。
では、なぜ奥州街道は内陸に整備されたのか。それは地形図を見れば明らかです。岩手県のリアス式海岸に代表されるように、太平洋側は複雑な地形が多く、発展するには土地が狭小でした。三陸海岸に面する宮古市や大船渡市が県庁所在地に成り得なかった理由はここにあります。広い平野部に位置し、奥州街道が通り、海にも面する宮城県仙台市は東北最大の都市になるべくしてなったのです。
奥州街道と交流する山形県山形市
山形県は4つの地域に分かれています。酒田市や鶴岡市がある庄内、新庄市がある最上、山形市がある村山、米沢市がある置賜。庄内の酒田市は古くから北前船の往来で栄え、「西の堺、北の酒田」とまでいわれました。現在でも山形県唯一の重要港湾となっています。一方、江戸時代に最大の石高を誇ったのは、山形市に本拠を構えた最上藩(57万石)でした。さらに、庄内と置賜は幕末に反政府軍である奥羽越列藩同盟に参加したことが山形市の県庁所在地を後押しします。
明治時代に入り、交通の中心が北前船から鉄道、車に変わるとますます山形市は発展しました。初代県令(県知事)の三島通庸は東西を結ぶインフラ整備を急ぎました。日本海側の県ですが、意識は江戸に通ずる太平洋側の奥州街道や東北最大の都市である宮城県仙台市に向いていたと考えられます。福島県福島市と山形県を結ぶ奥羽本線の開通は1905年。一方で新潟県新潟市と山形県を結ぶ羽越本線の開通は1919年です。宮城県村田町から山形県鶴岡市を結ぶ山形自動車道も、山形市から鶴岡市の間に未だに未成線があります。山形市が発展する一方で、鶴岡市と酒田市は陸の孤島のような状態になってしまいました。
新政府軍についた福島県福島市
岩手県盛岡市と同じく、奥州街道が通る福島県福島市ですが、前者とは県庁所在地に選ばれた理由が少し異なります。というのも、福島市は元々石高3万石の小藩で、福島県で最も栄えていたのは奥州街道より内陸部の会津若松市でした。
しかし、会津若松市は奥羽越列藩同盟に加わり、戊辰戦争で新政府軍に敗北します。そのため、新政府軍寄りだった第2の都市、福島市に県庁が置かれることになりました。中通り、つまり奥州街道に沿って交通網も整備されていったため、海に面する浜通りのいわき市は対象から外されました。また、郡山市は当時まだ栄えていなかったため、比較対象にもなりませんでした。戊辰戦争がなければ県庁は会津若松市に置かれていたかもしれません。
河港として栄えた茨城県水戸市
北関東の茨城県ですが、奥州街道が通る自治体は古河市のみです。茨城県内で大動脈となったのは五街道に準ずる扱いである脇街道の「水戸街道(現在の国道6号)」でした。その終点こそが那珂川舟運の河港、水戸徳川家で栄えた水戸市。水戸街道は日本海に面する日立市まで結ばれませんでした。
平安京に由来する京都府京都市
京都市は西日本で唯一、海あり県の海なし県庁所在地です。いかに西日本の人々が海を重要視したかおわかりいただけるでしょう。ではなぜ千年の都だけ海なし県庁所在地を選んだのでしょうか。
まずは、京都に都が築かれた理由を説明します。奈良の平城京では寺院の影響力が大きくなっており、政治に口出しされることを嫌って遷都を画策しました。当時は陰陽道に頼っており、地理的な理由は後回しにされ京都府長岡市の長岡京が選ばれました。さらに、不幸が続いたことからわずか10年で京都府京都市の平安京へ遷都。平安京は淀川が流れ、水運の拠点としても大変優れていました。かくして、京都市は長らく日本の首都として機能することになります。
京都府民の中には「京都市の中心以外は京都じゃない」という人がいます。当時の海の玄関口は大阪府大阪市。海に面する丹後国・舞鶴市は地理的に遠く、遷都の比較対象になりませんでした。しかしながら、戦時中は日本海側唯一の軍港にもなりましたし、県庁所在地としての素質は十分にあったと思います。
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