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執筆者の写真うらのりょうた

五島市〜福江島のまち〜

更新日:2022年11月26日

福江島を中心に大小63の島々で形成される五島市(ごとうし)。

福江港

右奥に見えるのは奥岳

博多からの長い船旅を終え、フェリーを降りると、前からニコニコとおじさんが歩み寄ってきました。私が無視してすれ違おうとすると、「またそんなんしてぇ!わかってるんだよぉ!」とこちらに話しかけてきているようです。私が困った顔をすると、「もうやめてょ、ケンポウさんでしょ!」と屈託のない笑顔で言われて驚きました。どうやら、私は"ケンポウさん"に似ているようです。愉快な島旅が始まりました。

長崎で運航する九州商船

格子状に広がる立派なアーケード街。スピーカーからはYOASOBIさんなど最新のヒット曲が流れます。最盛期には9万人の人口を擁しただけあって、長崎県の離島では一番栄えていると感じました。

立派なアーケード

年季の入った玩具

長崎県の星、福山雅治さん

鮮やかな花屋さん

高齢の男女たちが配布していました

カトリック福江教会

カトリック福江教会

ちっちゃくてかわいい子猫

午前10時。武家屋敷通りを散策していると、「ふるさと館」の館長に声をかけられました。「五島うどんが食べたい」と伝えると「シェフが今来たので交渉します」と返答してくれました。建物の奥から「五島うどんを食べていないのが心残りなんだって!」と交渉する声が聞こえます。数分後、オッケーをもらえたようで、館長が笑顔で戻ってきました。何と、11時30分から営業開始にも関わらず、11時45分に出港する長崎行きのフェリーに合わして調理場に立ってくれたのでした。

武家屋敷通り

五島うどんができるまでは島の暮らしについて話に花が咲きました。館長は親戚が神戸市に住んでいるようで親近感が沸きます。


「長崎の数ある離島の中でも最も栄えている」と島民も自負する五島市。福江藩・五島氏の城下町として発展し、戦後は漁業で栄えて大豪邸も立ち並びました。温暖化の影響で魚が獲れなくなり、漁業の衰退とともに島の人口も半減したそうです。休みの日は漁師でもない父が100匹も釣果をあげて、家で並べ「どうだお前ら」と自慢したそうですが、今では釣れても10匹くらいだと言います。「バンバン釣れていた」というイシダイが今や幻の魚と言われるようになり、変わって南の魚が獲れるようになったそうです。今は藻を食べてしまう南から来た小さな魚を撲滅させて元の海に戻そうとしています。小さな魚は魚醤にするなど活路を模索中。魚醤は匂いがキツいですが、島の特産品である椿油を使って改善。また、椿油に目をつけた資生堂が入ってきて島が再び潤い始めたそうです。シャンプーの「椿」です。NHKの朝ドラの舞台にも決定。館長もエキストラとして出演しています。

「1番最初のお客さんが大事だから!」と笑顔で店内に出迎えてくれたシェフ。シェフと言っても失礼を承知で言うとごく普通の元気で優しいおばちゃん。言葉はなんでも良かったのだと思います。とにかく、気を使わなくてもいいというおばちゃんなりのメッセージだったのだと思います。「お口にあえばいいんだけど」と言って運ばれてきた五島うどんは、お口に合いすぎました。名産の椿油を塗り込んだうどんはツルツルでシコシコ。あっという間に完食しました。

五島うどん

館長さんには日焼けを心配されました。五島市は嫌な暑さはなくても日差しがとても強い。そして、台風の季節は大変とのこと。港の近くのドラッグストアを2件(マツモトキヨシとモリ)紹介していただき、日焼け止めを購入しました。時すでに遅し、皮膚はヒリヒリで、めくれてしまいましたが、塗らないよりはマシだったはずです。

日焼け

1540年、東シナ海を舞台に貿易商として活躍していた明国の王直は、通商を求めて福江島に来航。財政に苦しんでいた領主・宇久盛定は、喜んで通商を許可しました。現在の「唐人町」は明国のために整備された居住地で、「六角井」はその時につくられた井戸です。「明人堂」は、王直らが航海の安全を祈って建てました。

六角井

明人堂

幕末の1863年、異国船の監視、海上防衛を目的に建てられた「石田城」は「日本最後の城」と言われています。

石田城

穏やかな離島ですが、ちゃんと取り締まりも

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