日野町(ひのちょう)は戦国武将である蒲生氏郷(がもううじさと)の出身地です。
織田信長に従い、娘の冬姫と結婚。本能寺の変の後は豊臣秀吉に従い、松阪の新城に移りました。その時、多くの日野商人が松阪に移住したほど人徳があったようです。
数々の功績が認められ奥州92万石を与えられると、「黒川」を故郷・日野の若松の森にちなみ「若松」(現在の会津若松市)に改めました。病気により40歳の若さでこの世を去りましたが、功績が称えられて故郷に蒲生氏郷公銅像が建設されました。
近江日野商人は近江商人の中でも日野地方出身の人を指します。大きな店舗は少なくても、出店数で群を抜きました。千両たまれば新しい店を出す出店攻勢から「日野の千両店」と呼ばれました。
商法は、上方の産物を地方で売りさばき、地方の産物を上方で売りさばく「近江商人ののこぎり商法」。行商の往復で利益を生み出すシンプルで無駄のないものでした。商社の元になるような考え方で、販路を拡大していきました。
日野の看板商品は200軒を超える漢方医薬。軽くて利益が大きいのでのこぎり商法にぴったりでした。特に、「萬病感応丸」は多くの店で販売。がめつくて商売上手の近江商人と、倹約上手の伊勢商人は「近江泥棒に伊勢乞食」と言われ、江戸商人に負け惜しみされました。
「日野まちかど感応館(旧正野玄三薬店)」は、今も万病感応丸の看板が掲げられ、薬のまちのシンボルになっています。
日野町役場も訪問。そばには激しく混んでいる大人気のクリニックがありました。「なんやこれ」と思わず撮ってしまう盛況ぶり。
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