裏日本の歴史
「裏日本」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。太平洋側を「表日本」としたとき、日本海側、特に北陸と山陰を指して「裏日本」と呼ばれました。明治時代から昭和時代にかけて使われた言葉だそうです。「裏」という響きが不快感を与えるということで、平成時代以降はメディア等で使用されることがなくなりました。しかし、本来「裏」には表の反対という意味しかなく、悪い意味はありません(野球の表裏などもそうですね)。1965年には富永次郎さんが『裏日本ベスト12コース』というガイドブックが刊行されるなど、ごく一般的に使われていました。このように、元々は自然地理的な用語として使われましたが、次第に経済格差などの意味合いを含むようになります。
裏日本の隆盛
「裏日本」という言葉が使われ始めた明治時代の日本海側は、格下として卑下されるどころか、太平洋側を凌駕するほどの力と勢いがありました。1903年のデータでは、北陸4県(新潟県、富山県、石川県、福井県)と東海3県(静岡、愛知、岐阜)の工業生産額や人口、面積はほぼ同じでした。新潟県は明治時代に人口日本一になったこともあります。
近代以前の日本海側は北前船が走り、加賀百万石があり、上方と結ばれ豊かな土地でした。浄土真宗が信仰され、控えめながら忍耐強く勤勉な県民性がまちの発展を支えました。
鉄道革命
明治時代に入ると、太平洋側を優先的に鉄道網が整備されたことによって、次第に人や物が太平洋側に集中するようになります。いわゆる「鉄道革命」です。
「能登も、海運の時代は交通の要衝だった。半島は船の場合便利、陸路となると僻地」(今尾恵介)。石川県の能登半島をはじめ、北前船で栄えたまちは時代の曲がり角にさしかかります。
1878年、政府租税収入に占める地租は82%にも及びました。そして当時、地租額のトップを走っていた都道府県は加賀百万石で知られる石川県。人や物だけでなく、資金までもが日本海側から太平洋側へ移動する構造ができあがりました。
裏日本の魅力
「人生には悲しい時も、静かにしたい時もある。そんな時に裏日本は、良い旅先になる」、「暗い雪の季節が続いた後、春先になると、ぱーっと太陽が照って、『春が来た!』って思う日があるんですよ。そんな日の北陸の人の喜びっていうのはね、表日本の人にはわからないだろうなぁ(ニコニコ)」。これは、石川県で旅館「加賀屋」を営む小田会長の言葉です。
大阪府出身の小説家、川端康成さんは『雪国』の一節で「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった」と表裏を表現しました。
北陸では11〜3月にかけて毎日のように空が鉛色の雪雲に覆われます。だからこそ、春が訪れる喜びをどこよりも強く感じることができるのかもしれません。
「能登は優しや土までも」という言葉があります。測量器具を積んだ馬がつまずいたとき、能登の人は測量器具ではなく、まず馬の心配をしたそうです。お金や時間だけにとらわれない、心の豊かさを感じさせるエピソード。実際、北陸3県は幸福度が高いことでも知られます。
ヒマワリと月見草、表日本と裏日本。どちらにも魅力があります。アメリカ大陸から見ると、表は太平洋側かもしれませんが、ユーラシア大陸から見ると表は日本海側です。将来、裏日本がトップランナーに返り咲く可能性がないとは言い切れません。
【参考文献】
酒井順子『裏が、幸せ。』小学館、2015
古厩忠夫『裏日本』岩波書店、1997
阿部恒久『「裏日本」はいかにつくられたか』日本経済評論社、1997
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