長いお付き合い。長井市(ながいし)は米沢藩の港町のまちです。山形県は内陸の米沢市から日本海に面する酒田市まで流れる最上川の舟運で栄えました。しかし、米沢市付近は難所が多かったために、下流の長井市が米沢藩の港町として栄えました。市内には豪商の屋敷が立ち並びました。明治に入ると、薩摩から三島通庸(みしまみちつね)が初代県知事(当時は県令)として送り込まれ、近代化が推し進められます。建物という建物をぶち壊し、全て欧米化していきました。農民は大変驚いたといいます。これには、新しい時代が来たことを知らせる、自分の権力を見せつけるという2つの理由がありました。日本的というか、お城など貴重な建物の多くが現代まで残っていない理由がよくわかります。業務には写真技師の菊池新学を帯同させ、功績を収めた写真の数々を明治天皇に献上させます。中央政府へ近づくための策略で、相当なやり手でした。少々強引なやり方には賛否両論あったそうです。
まちのシンボルとなっている「小桜館(旧置賜郡役所)」も同時期に建てられたものです。現在残っている郡役所のなかでは山形県で1番、全国で2番目に古いものです。色ガラスが入った「ファンライト」や屋根の下の長方形の飾り「ディンティル(デンタルが語源)」などが特徴的。ただし、歴史は繰り返すもので、明治時代に建てられた建物は高度経済成長の再開発で取り壊されていきました。小桜館も対象でしたが、「さすがにここまで壊してはまずいんじゃないか」という声が広がります。長井市はお金がなく、文化財を保護する余裕がなかったため、小桜館を公民館や市民の憩いの場という名目にして予算を確保。会議や習い事に使えるフリースペースに改築し、なんとか存続にこぎつけました。「ほかの建物も残っていれば洋風建築が立ち並ぶまちなみだったのに」と館内を案内してくれた女性が悔やんでいました。1度分解して組み直さないといけないなど、国の文化財になるためのハードルは高く、市の文化財に留まっています。逆にいえば、そのおかげで自由に入って触れることができます。
同様に、旧長井小学校第一校舎も市民の学びと交流の場として活用されています。一方で、こちらは市内で唯一残る木造校舎として国登録有形文化財に指定されています。
学校のそばには「道の駅川のみなと長井」があり、旧長井小学校第一校舎を見学するときはこちらの駐車場を使います。もはや道なのか駅なのか、川なのか港なのかよくわかりませんが、確かに道であり駅であり、川であり港であります。駅は電車しかない、港は海にしかないという固定観念は1度捨てた方がいいみたいです。
あやめ公園に代表される花のまち。
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